こんにちは、Miraiz教室代表の近藤です。
とかく変わり者の多い学習塾業界、私もきっとその点では人後に落ちないでしょうけれど(笑)、簡単な自己紹介をさせていただきますね。
近藤 息吹(こんどう いぶき)
とかく変わり者の多い学習塾業界、私もきっとその点では人後に落ちないでしょうけれど(笑)、簡単な自己紹介をさせていただきますね。
近藤 息吹(こんどう いぶき)
1975年2月6日 大阪府高槻市生まれ
麻布中学校・高等学校 卒業
麻布中学校・高等学校 卒業
早稲田大学社会科学部 卒業
両親共にアナウンサーという家庭で育ち、自他共に認める筋金入りのおしゃべりです。
両親共にアナウンサーという家庭で育ち、自他共に認める筋金入りのおしゃべりです。
生まれてまもなく高槻より転居、大阪府箕面市の山間の住宅地で小学生時代を過ごしました。
普段は出身地がバレない程度に標準語ですが、気を抜くとだんだんイントネーションがおかしくなることがあります。
物心ついたころから自我が強く、まずおとなしく何かに従うことのない子供でした。
物心ついたころから自我が強く、まずおとなしく何かに従うことのない子供でした。
好きな言葉は「自由」と「反骨精神」。
キライな言葉は「思考停止」「同調圧力」「予定調和」です。日本に居場所が少なそうな感じですよね(笑)。
当然ながら小学校の先生とは、ことごとく折り合いが悪く、小学4年生以降、たびたび登校拒否になりました。
自宅に引きこもるのではなく、公園のトイレや工事現場の廃屋に立て籠もるワイルドなスタイルです(笑)。
平凡な公立小で、特別に酷い環境というわけでもなかったはずですが、「管理」と「秩序」を最優先するあまり、個性に対しては不寛容で窮屈な環境は、どうしても私の肌に合わず、ただただ苦痛の毎日でした。
そんなある日、近所の友達のお母さんで、僕のこともとても可愛がってくださった方に「ある中学校」をオススメされます。
そのお宅のお兄さんもOBで、この子にも絶対に合うと思うから、と。
そんな「校則のない東京の自由な学校」に憧れ、中学受験を志します。
同じくその方に紹介していただいた豊中市の『志学舎』という塾に通い、僕の心の中のモヤモヤを眩しいくらいの熱と光で照らしてくれる魅力的な授業と、
同じくその方に紹介していただいた豊中市の『志学舎』という塾に通い、僕の心の中のモヤモヤを眩しいくらいの熱と光で照らしてくれる魅力的な授業と、
毎週帰り際に僕の心をどんより曇らせる大量の宿題、そして竹刀と鉄拳制裁の豪雨に耐え抜き(時代ですね)、どうにか志望校合格を果たせました。
東京に転居し、どうしても入りたかった憧れ抜いた中学校に入学。そこからはもう、黄金の日々です。
見るモノすべてが新鮮で、輝いてて、楽しくて仕方ない。そんな日々が6年間も約束されたなんて、信じられないような思いでしたねえ。
管理ありきに反抗する、納得しなければ決して従わない、そういった今まで否定・批判されてきた私の在り方が、すべて「個性」という形で認められ、肯定と評価に変わったのですから、幸せなことこの上ありません。
…ということで、中学・高校時代はまったく勉強しませんでした(笑)。
暇さえあれば友達とあちこち旅行へ行き、あとは好きな本ばかり読んでいました。
やりたいことは片っ端から手をつけますが、面白くないとパタリとやめてしまいます。
野球部を半年で辞めたのを皮切りに、いくつもの部を渡り歩き、あるいは掛け持ちしていました。
走らされるのがイヤで辞めた野球部。
バク転したくて入った器械体操部。
夏の筋トレがイヤで冬になる前に辞めたスキー部。
卒業まで続いたのは空手部くらいでしょうか。
アウトロー揃いの先輩たちが魅力的だったんですよね。
その先輩たちのあまりの狼藉に一度廃部になりかけますが、僕の先代の主将が立て直し、僕の代で後輩がたくさん入ってきてくれたこともあって、復活を果たします。
ちなみにMiraizの本社「インテベスト」社長を務める菊地は、この空手部の縁で後輩に当たります。
空手部は個性的な先輩・後輩が多く、いまでも仲が良いですね。社会学者の宮台真司さんも空手部OBです。
ただ、空手部は僕の卒業後しばらくして、とんでもない不祥事をやらかして再び低迷、結局廃部になっちゃいましたが…(笑)。
あとは部室にファミコンがあるからという理由で入部し、一枚も写真を撮らなかった写真部員として。
部室に撮影旅行用の鍋やコンロがあるからという理由で入部し、昼休みや放課後にラーメンや鍋を楽しむばかりで鉄道研究(しない)部員として。
学校外では、初めてコンビニでアルバイトをしたり、文化祭に向けてバンドを組んだりもしました。
▲文化祭での教室ライブ。委員長は初日にステージで髪を丸刈りにする伝統があり、丸坊主に。ちょうどいいやってんで、爆風スランプのコピーもやりました(笑)。
とにかく人を驚かせること、楽しませることが大好きで、さまざまなサプライズを仕掛ける毎日でした。
お祭り好きが高じて、GWに1万数千人が来場する母校の名物文化祭の実行委員長になり、入学式でのスピーチも担当。
中学受験をくぐり抜け、希望に胸を膨らませて正門から入ってくる新入生たちに、二階から人生ゲームの札束を派手にばらまき、入学式の壇上では空手着姿で板割りを披露し(これで空手部入部者が増えたんですね・笑)、スピーチにかこつけて何やら与太話を色々吹き込んだような記憶がおぼろげにあります。このおかげで、僕よりもずっと立派になった後輩たちがみんな僕のことを覚えていてくれるという役得がいまだにありますね(笑)。
他にも6学年縦割りの運動会では高2で花形の応援団長、雑誌と見紛うかのような卒業アルバムの制作委員長など、オイシイトコ全部どりでした。
授業中は寝ているか、食べているかがほとんど。前後左右の悪友たちとトランプ・将棋・カード麻雀。机に彫刻刀でBB弾ゴルフのコースを作ったりもしました。砂を入れたバンカーや池もある本格的なコースで、水が机にしみて中のノートやプリントがビチャビチャになりましたね。
冬場は寒いのにみんながドアを閉めてくれないので、東急ハンズで滑車を買ってきて、重りで閉まる半自動ドアをつくったりもしていました。
旧ソ連大使館の一等書記官の方が来校された折には、講演に空手着姿で乱入して、言いたい放題。
「日本人の正装でやって来ました」
「日本人の正装でやって来ました」
「だいたいロシア人は暗い!明るいロシア人なんて想像つかない」
「アメリカに負けないように、軍事よりエンターテイメントで世界を席巻しよう!」
「コサックだ、コサックがあるじゃないか!ウオッカ飲んでコサックだ!」
とその場でコサックダンスを踊り喝采を浴びました。
この日あとで校長室に呼び出され……さすがにやり過ぎたかな…と覚悟して扉をノックしたところ、開くなり校長先生、意外にも破顔一笑。
「昔は君みたいな麻布生がたくさんいたんだよねえ…」
と、お褒めの言葉をくださいました。
書記官のシェフチューク氏も、たいへん寛容に受け止めてくださり、
「あなたの発想は面白かった。きっと将来立派な『指導者』になるでしょう!」
などと、とっても共産圏らしい(笑)讃辞を頂戴してしまいました。
91年5月のことでしたから、ソ連邦崩壊の直前ですね。
しかし若気の至りとはいえ、一歩間違えば国際問題。いま思うと冷や汗ものです。なんて向こう見ずなアホだったんでしょう…。
そんなこんなで人生で最も楽しかったやりたい放題の6年間を終え、卒業式では剣道着とオモチャの刀で侍に扮し、演台に割り込んで校長からマイクを奪い「拙者浪人でござる」一言で締めるという、身を挺したネタで喝采を浴びました。
とまあ、エンタメ方面の実績は十二分にあるのですが、勉強は本当にまったくしませんでした。
試験のたんびにもがき苦しみ、赤点を多数抱え、得意科目と苦手科目の間には時に90点もの得点差が………。
試験のたんびにもがき苦しみ、赤点を多数抱え、得意科目と苦手科目の間には時に90点もの得点差が………。
さらに文化祭をきっかけに、スポットライトがやみつきになり、本格的にバンドを始めようと決意します。
父に電話で相談しましたら、
「好きにしていいけど、大学生レベルでも腕の立つバンドたくさんあるから、その中でナンバーワンになってから決めたっていいんじゃないか?ダメだったときにはつぶしが利くし」
というわかりやすいアドバイスで、すぐその気になります(笑)。
親父は早稲田の放送研究会出身でした。
在学中にバンドの司会(当時はバンドに司会がつき、全国回りなどもやっていました)で名を挙げ、やがて本職になったそうです。
それで僕も「他の大学もよく知らないし、とりあえず早稲田でいっか…」などと、ロクに勉強もしてないのに実にナメくさった態度で志望校決定。
高校3年の秋、進路面談で志望理由に「バンドサークルが多いから」と書きましたら、担任も「そうか、じゃあがんばれよ」と10秒で終了し、あとは「とりあえずお前、この成績と出席じゃあ卒業が危ういからな…」というお説教が小1時間続きました(笑)。
先生方の温情で何とか卒業は勝ち取ったものの、あまりの不勉強ぶりに現役では到底合格には届かず。
一浪の末、早稲田ばかりを受けて3つの学部で合格を貰います。
当時はお昼過ぎからの講義しかなかった社会科学部に「朝起きなくてイイから」という理由で進学しました。後から知ったのですが、親父も同じ学部で驚きました。
そして早稲田最大の音楽サークル「WFS(ワセダフォークソング)」に入会。
聖飢魔IIや爆風スランプなどの個性的なバンドを輩出したことで有名な老舗サークルです。
ここでメンバーを集めバンド結成と解散をくり返し、やがて本格的に音楽活動を始めます。
ここでメンバーを集めバンド結成と解散をくり返し、やがて本格的に音楽活動を始めます。
見た目は派手ですが、タバコは嫌い・お酒は飲めない・楽屋では文庫本を読む(笑)、珍しいくらい「マジメ」なバンドマンでした。
avex系列の制作会社や渋谷の音楽事務所等の後援を受け、CD制作・リリース、全国でのライブ活動、テレビ・ラジオ出演やミニコミ氏への連載など精力的に活動していました。
avex系列の制作会社や渋谷の音楽事務所等の後援を受け、CD制作・リリース、全国でのライブ活動、テレビ・ラジオ出演やミニコミ氏への連載など精力的に活動していました。
とはいえメンバー5名、「経費は5倍、ギャラは5分の1」ですから、それだけで食べていけるほどではありません。
活動の合間にコンビニの深夜勤務や家庭教師のアルバイトで糊口をしのいでいました。
勉強嫌いな子の気持ちも、頑張って目標を達成した喜びも、両方がよく知っていますから、教え子と意気投合するのも早かったですね。
教えるとできるようになる、生徒も勉強が楽しくなってくる、このやり甲斐を覚えて、塾のアルバイトを始めるようになります。
2003年、28歳から、新浦安のいまはなき某学習塾で時間講師として勤務。小中学生の学習指導、進路指導に携わります。
子供達と楽しく勉強している内に、音楽よりだんだんこちらの方にやりがいを感じるようになってきてしまいまして、2005年に30歳を迎えたことを期に、バンド活動に終止符を打ちました。
子供達と楽しく勉強している内に、音楽よりだんだんこちらの方にやりがいを感じるようになってきてしまいまして、2005年に30歳を迎えたことを期に、バンド活動に終止符を打ちました。
勤務先の学習塾でそのまま社員に登用され、以後本格的に専任講師として生徒指導、運営事務に携わります。
2006年(31歳)、全9教室の国語科を統括する教務主任に就きます。教材作成、カリキュラム編成などを担当しました。
2008年(33歳)、浦安教室長に就任。最大400名規模の教室で、マネジメント、労務管理などを学びます。
2010年(35歳)、千葉ブロック統括責任者として、個別指導専門教室を含む、浦安地区4教室の管理運営にあたります。
2010年(35歳)、千葉ブロック統括責任者として、個別指導専門教室を含む、浦安地区4教室の管理運営にあたります。
プライベートではこの年の夏に結婚しました。
《17年間の主な指導生徒実績》
★高校入試
早大高等学院、慶應義塾高、渋谷幕張高、県立千葉高、県立船橋高、県立千葉東高、市川高、東邦大東邦高、昭和秀英高ほか
★中学入試
市川中、東邦大東邦中、昭和秀英中、青山学院中、広尾学園中ほか
「塾の先生」になって11年。次の大きな転機は三十代も終わりに近づく2013年に訪れました。
本部管理職への配転命令を機に、「現場で教えていたいから」という理由で、年度末をもって退社を決意します。
最終勤務日は忘れもしない2014年2月8日。
ものすごい大雪の中、生徒たちばかりか、かつての卒業生までが大勢駆けつけてくれました。
なんとなく名残惜しい空気の中、近所にお住まいの保護者の方が鍋を差し入れてくださいまして、大学生や社会人になった教え子たちや、同僚・学生アルバイトのみんなと、朝までお別れ鍋パーティをやりました。
大雪で一面真っ白に染まった浦安の街で、朝の光がやけに眩しかったことを覚えています。
(塚原や青木・小出も写っています、みんな前職からの仲間たちなんです)
同年4月、かつての教え子たちや保護者の皆さんの熱いお声に背中を押していただき、新たに浦安で学習塾を独立開業することを決意します。
同年4月、かつての教え子たちや保護者の皆さんの熱いお声に背中を押していただき、新たに浦安で学習塾を独立開業することを決意します。
会計の専門家である中高時代の友人が経営する、投資情報・経営コンサルタント会社「株式会社インテベスト」に入社し、学習塾部門として新規に「進学匠房Miraiz」のスタートアップに当たります。
起業に当たっては多くの友人知人の援助をいただき、またかつて職場を共にした講師仲間たちも次々と駆けつけてくれました。
そして同年6月、新浦安・高洲の地に、小中学生対象の進学塾「進学匠房Miraiz」を開校。
最初の1ヶ月で70名以上の生徒を集め、以来5年間平均しておおよそ120〜150名の生徒が在籍。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」
という井上ひさし氏の言葉を教室の理想・座右の銘として、明るく楽しく現在に至ります。
塾講師になりたての頃、私に「こんぶ」と命名してくれたのは初めて受け持った当時の小5生たちでした。
新人の私に強烈な洗礼を浴びせてくれたK藤くん、K井くん、M瀬くん、T田くん、K田くん、N田さん、B場さん…といまでもひとりひとりくっきりと顔が浮かびます。
その中の1人O君が先頃結婚式を挙げ、私もご招待いただきました。
立派になった彼の姿に、僕もまた目頭が熱くなりましたが、かほどに17年とはあっという間のようで、重みのある年月だなあと再認識したものです。
彼らが名付けてくれたそのままに、17年後のいまも私は生徒の皆さんから「こんぶせんせーい!」と呼ばれております。
彼らが名付けてくれたそのままに、17年後のいまも私は生徒の皆さんから「こんぶせんせーい!」と呼ばれております。
そして昨年(2019)には、長男が誕生。
44歳にして授かった待望の我が子に、毎日デレデレです。
この話はすごく長くなりますので(笑)、よろしければ「親バカデレデレ日記」をご笑覧ください。
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